※境内図をクリックすると拡大することができます
山門は、高麗門(こうらいもん)と呼ばれる形で、正面の二本の本柱(鏡柱)の上部を冠木で繋ぎ切妻屋根を架け、内部の控えの上にも小さな切妻屋根を架けた門です。
檀信徒各位の多大なご協力により平成二十七年に完成いたしました。
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現在の本堂は昭和三十五年(1960)年に清水建設の施行により建立された本堂です。
平成二十七年(2015)に瓦の張替え、令和二年(2020)には外壁塗装工事が檀信徒各位の多大なご協力により行われました。
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本妙寺で最も古い建造物が鐘楼です。鐘楼は本郷丸山から移転したものになると考えられていますが詳しくは分かりません。
令和二年(2020)に檀信徒各位の多大なご協力により改修工事が行われました。
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本妙寺境内にある石工店です。山門を入ってすぐ左手にあります。
電話番号 03-3917-3637 FAX 03-3917-3639
明暦三年(1657)旧暦一月十八日未刻(午後二時頃)に出火し、折からの強風に煽られて、江戸城本丸・二の丸をはじめ江戸市中の六割余りを焼きつくし、死者約十万人に達した大火が「明暦の大火」です。
この火元となったのが本妙寺で、原因は本妙寺の檀家の娘の供養のために燎火に投じた振り袖が舞い上がって本堂の屋根に飛火したことによるものとされ、俗に「振袖火事」といわれています。しかし、これは後世に作られた伝承であるとされています。また、火元が本妙寺であるということに関して不審が多く「本妙寺火元引き受け説」が語られています
。
中央釈迦牟尼仏像と右にある圭頭碑は明暦の大火供養塔で、左側の無縫塔は安政の大地震の供養塔です。
関宿藩は下関葛飾郡(現在の千葉)にあり、関東の交通の要衝であることから、江戸幕府は関宿藩を重要視していた。
関宿城主久世家 初代から七代までが当山に、八代、九代は谷中霊園に葬られている。
関宿城主久世家
初代 久世広之(ひろゆき)
二代 久世重之(しげゆき)
三代 久世暉之(てるゆき)
四代 久世広明(ひろあきら)
五代 久世広誉(ひろやす)
六代 久世広運(ひろたか)
七代 久世広周(ひろちか)
初代 、二代、四代、七代は老中職をつとめた。
テレビの時代劇で人気者遠山金四郎こと通称遠山の金さんのお墓。本名は遠山景元
江戸後期の北町奉行、他に大目付、南町奉行等をつとめた。
安政二年(1855)二月二十九日没
歸雲院殿松僊日亨大居士
東京都指定旧跡
・昭和三年 標識設置
・昭和二十七年 史跡指定
・昭和三十年 旧跡指定
千葉周作は江戸後期の剣豪で北辰一刀流開祖、神田お玉ヶ池、千葉道場(玄武館)主をつとめた。
安政二年(1856)十二月十日没
髙明院勇譽智底敬寅居士
本因坊とは本因坊算砂日海を初代とする囲碁の家元である。徳川家康がことに碁を好み、京都にいた初代の算砂を江戸へ呼び寄せた。
三世の道悦までは没後京都の寂光寺に葬ったが四世の道策から二十一世の秀哉までの歴代本因坊は当山に葬られている。
天野宗歩は江戸末期の将棋の名人で棋聖位の称号を贈られた。墓石は将棋の駒の形をしている。
安政六年(1859)五月十三日没
玉用院名宗日歩居士
森山多吉郎はラナルド・マクドナルドから学んだ日本最初の通詞(通訳)。
ペリー浦賀来航のときも通詞をつとめた。ペリーは森山の語学力と共にその人柄も高く評価し、『日本遠征記』にその人柄を称えている。文久元年(1861)の遣欧使節団には福沢諭吉や福地源一が随行したが、両人の語学力に不安を感じた当時の駐日イギリス総領事オールコックの強い要請により森山が加えられた。
明治四年(1871)三月十六日没
清心院茶山日勇居士
本妙寺の永代供養塔です。代々供養を行っております。塔の上部には日蓮大聖人の銅像を安置しております。
本妙寺は明治四一年(1908)に巣鴨の地に移るまでは、現本郷五-一六の一帯に大寺院を構えていた。敷地は寺の敷地は拝領地が四九一〇坪(約1620㎡)、無年貢のが二四七坪半(約816.75㎡)と広くこの中に九間四面の本堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼、塔頭十二ヶ寺があった。
寛永十三年(1636)から明治四一年(1908)の約二七〇年間は本郷丸山の地にいたことから「丸山様」の異名をもっている。
本妙寺跡の真向かいには「本妙寺坂」が現在もあります。